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70歳で私財を投げ打って挑戦した日本人!標高2750メートルの秘境ムスタンで稲作を成功、近藤亨氏の物語!

  • sinsirokeibi
  • 2025年8月5日
  • 読了時間: 13分

標高2750メートルの不毛の地とされたネパールの秘境ムスタンで、70歳の近藤亨氏が世界最高地での稲作に成功した奇跡の物語。周囲の反対を押し切り全私財を投じた挑戦の過程と、日本の伝統農法を応用した独自の栽培技術により実現した偉業の全貌を解説します。


1. 近藤亨氏とは - 70歳で私財を投げ打ち単身ムスタンへ


1.1 新潟県出身の農業技術者としての経歴

近藤亨氏は1921年生まれ、新潟県加茂市出身の農業技術者である。新潟県立農林専門学校を卒業後、新潟大学農学部助教授を経て新潟県園芸試験場研究員となった。1976年に国際協力事業団(JICA)の果樹専門家としてネパール王国に派遣され、70歳の定年まで同国でネパールの立ち遅れた果樹栽培振興指導に尽力した。

年齢

経歴

1921年

新潟県加茂市に生まれる

戦後

新潟県立農林専門学校卒業

-

新潟大学農学部助教授

-

新潟県園芸試験場研究員

1976年(55歳)

JICA果樹専門家としてネパールへ

1991年(70歳)

定年後、単身でムスタンへ


1.2 周囲の反対を押し切った決断の背景

70歳の定年を迎えてのち、周囲の反対を押し切って再び単身ネパールに渡ってムスタンに定住したのだ。決心を変える人間ではないことをよく知っている家族は、半ば諦め、半ばあきれかえった。


1.2.1 戦争で亡くなった友人への償いの思い

近藤氏の独り言がその動機を物語っている。「そもそも若いころは文学少年で、農業技術者になろうとは夢にも思いませんでした。ところが肺結核で7年の療養生活の間に、友人たちはみな戦争に行き、半分が死にました。戦場で亡くなった友人に、ああ申し訳ない……と。その償いのつもりでやっています」と。

「このたびの親父の我が儘をどうか黙って許してくれ。必ず、私は秘境の貧しい村人を救うため、立派な仕事をして見せるから」という言葉を家族に残した。


1.2.2 先祖伝来の家屋敷まで手放した覚悟

さらに近藤氏はムスタンでの活動費を捻出するため、先祖伝来の家屋敷や山林まで手放した。背水の陣の意気込みである。

平成3(1991)年6月18日、家族が見送る中を、近藤氏はムスタンに向けて、70歳の誕生日に一人旅立った。ネパールの首都カトマンズから小型飛行機2便を乗り継いでヒマラヤ山脈の西北部を越え、さらに馬に乗って3日目、ようやくたどり着いた所がムスタン地区の寒村、ガミ村だった。


2. 世界でも稀に見る農業不適地・ムスタンの過酷な環境


ムスタンは、ヒマラヤ山脈の北側に位置する世界でも希に見る農業に不向きな土地である。近藤亨氏が到着したガミ村は、富士山頂に近い標高3,600メートルの台地にあり、驚くほど厳しい自然環境が待ち受けていた。


2.1 標高3000~4500メートルの高冷地

ムスタン地方は標高3,000~4,500メートルの高冷地に位置している。稲作は通常、熱帯か温帯で行われるのが常識であり、日本では標高約1,000メートルが高地栽培の限界とされていた。世界的に見ても、中国雲南省山岳地帯で日中共同研究により標高2,450メートルで成功したのが極限だった。

地域

稲作可能な最高標高

日本(新潟・長野など)

約1,000メートル

中国雲南省

2,450メートル

ムスタン(近藤氏の挑戦地)

2,750~3,600メートル


2.2 年間降雨量100~150ミリの超乾燥地帯

ムスタンは年間降雨量がわずか100~150ミリという極端な超乾燥地帯である。この降雨量は、一般的な農業地帯と比較して極めて少なく、作物栽培には致命的な水不足となる。住民が畑で作ることができるのは、裸麦、ライ麦、ソバなど、極めて限られた作物のみであった。


2.3 毎秒10~20mの強風が吹き荒れる土地

ムスタンでは毎秒10~20メートルの強風が1年中、昼から夕刻まで吹き荒れる。平均風速は15メートル以上に達し、時には風速計や風力発電のプロペラが壊れ飛ぶほどの猛烈な風が吹く。この強風は、農作物の生育を著しく阻害し、土壌の乾燥をさらに促進させる要因となっていた。

環境要因

ムスタンの状況

農業への影響

標高

3,000~4,500m

低温による生育不良

年間降雨量

100~150mm

極度の水不足

風速

毎秒10~20m

作物の物理的損傷、土壌乾燥

これらの過酷な自然条件が重なり合い、ムスタンは農業にとって世界でも最も困難な環境の一つとなっていた。


3. ムスタンの貧困と食糧事情の実態


3.1 主食は裸麦・ライ麦・ソバのみ

ムスタンの住民が畑で作り、主食としているのは、裸麦、ライ麦、ソバだけである。野菜はソバの緑の葉を茹でて食べ、それがなくなれば、川辺の雑草を食べるという極めて厳しい食生活を送っている。

肉や白米は冠婚葬祭の時にしか口にできない贅沢品であり、普通の暮らしぶりの農家でさえ、白いご飯が食べられるのは、冠婚葬祭時か、せいぜい年に1、2回という状況だった。村人たちはソバガキの一種を常食としながら細々と暮らしていた。

食材の種類

摂取頻度

備考

裸麦・ライ麦・ソバ

毎日(主食)

自家栽培の限られた作物

ソバの緑の葉

季節により

野菜の代替として茹でて食べる

川辺の雑草

食糧不足時

他に食べるものがない時の非常食

白米・肉

年1〜2回

冠婚葬祭時のみの贅沢品


3.2 平均寿命45歳という厳しい現実

このような極端に偏った食生活により、平均寿命は45歳という短命な状況に陥っていた。これは現代の先進国の平均寿命の半分程度であり、ムスタンの人々がいかに過酷な環境で生きているかを物語っている。


3.2.1 栄養不足による健康問題

限られた穀物と野菜代わりの雑草だけの食事では、必要なタンパク質、ビタミン、ミネラルが慢性的に不足する。特に成長期の子どもたちへの影響は深刻で、「この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たち」というのは、誇張ではなく、近藤氏が見てきた現実であった。


3.2.2 出稼ぎに頼らざるを得ない生活

働き手は男女を問わず、カトマンズや、国境を越えてインド、タイ、シンガポールまで出稼ぎに行かざるを得ない状況だった。しかし、自分の名前すら書けないため、どこへ行っても最低賃金の重労働の仕事しか得られないという悪循環に陥っていた。

それでも彼らは「ここは先祖が亡くなった土地です、私の代でふるさとを捨てるわけにはいかない」と答え、その生きざまに近藤氏は心を打たれたという。


4. 他の支援団体も失敗した農業振興の歴史


近藤亨氏がムスタンに到着する前、この地域では既に複数の支援団体が農業振興に挑戦し、ことごとく失敗に終わっていた。標高3,000~4,500メートルの高冷地で、毎秒10~20mの強風が吹き荒れ、年間降雨量が100~150ミリという超乾燥地帯は、世界でも稀に見る農業に不向きな土地であった。


4.1 アメリカの自然保護団体の植林失敗

ムスタン地方の貧しさを救うべく、アメリカの自然保護団体が5年の年月と巨費を投じて植林を試みた。しかし、極端な乾燥と強風という過酷な自然環境に適応できず、プロジェクトは失敗に終わった。

団体は近藤氏が到着する3年前に撤退しており、莫大な資金と時間を費やしながらも、地域住民の生活改善には全く貢献できなかった。この失敗は、ムスタンでの農業振興がいかに困難であるかを如実に示していた。


4.2 ネパール政府のリンゴ栽培・畜産の失敗

ネパール政府もまた、ムスタン地域の農業振興に取り組んでいた。政府はリンゴ栽培や畜産などの導入を試みたが、厳しい気候条件下でいずれも失敗していた

プロジェクト

失敗の要因

結果

リンゴ栽培

極端な寒暖差と乾燥、強風による被害

樹木の生育不良、実をつけることなく枯死

畜産振興

飼料不足、厳しい気候による家畜の衰弱

家畜の大量死、プロジェクト中止

こうして、ネパール政府や各国ボランティア団体からも半ば見捨てられたような状態となったムスタン。住民たちは相変わらず裸麦、ライ麦、ソバだけを主食とし、平均寿命45歳という厳しい生活を強いられていた。


5. 世界最高地での稲作への挑戦


5.1 標高2750メートルでの水稲栽培計画

ネパール政府や各国ボランティア団体からも半ば見捨てられたようなムスタンで、近藤亨氏が水稲栽培を本格的に計画したのは1994年のことであった。「貧しいムスタンの子どもたちに、腹いっぱい白いご飯を食べさせてやりたい」という思いに駆られた近藤氏は、ネパール政府社会福祉省に掛け合い、ガミ村の国有地200ヘクタールを借り受けた。

稲作は熱帯か温帯で行われるのが常識で、日本では標高約1,000メートルが高地の限界とされていた。世界でも、中国雲南省山岳地帯で日中共同研究により標高2,450メートルで栽培できたのが極限だった。近藤氏はムスタンのテニ村(標高2,750メートル)で試作に取り組み、成功すれば世界最高地での記録となる挑戦を開始した

試験用の水田は、最先端のバイオテクノロジーによるものではなく、東北の冷害地帯で行われてきた「深水栽培」と、静岡の「石垣いちご」の技術を応用した日本の伝統的農業技術の組み合わせであった。地面にビニールを敷いた上、水田の周囲を石垣で囲い、石の一つ一つに太陽熱を蓄えて田んぼの温度をできるだけ保ち、強風や冷気から稲を守る方法を採用した。


5.2 最初の3年間の失敗と批判

近藤氏は、日本から高冷地向け水稲栽培の品種を取り寄せ、北海道や青森などの試験場を訪ねて、冷寒用品種の種子を分けてもらい試作を開始した。しかし、最初の3年間は失敗の連続で、日本国内の支援者たちからも「近藤の趣味の農場じゃない。浄財によるものであり、無駄遣いは許されない」と批判を浴びた。近藤氏は「お願いだからもう一度チャンスを与えてください」と頭を下げることになった。


5.2.1 冷寒用品種での試行錯誤

近藤氏が導入した冷寒用品種は、いずれも出穂期、穂膨(ばらみ)期までは順調に発育した。しかし、最後はすべて「しいな(粃、皮だけで実のないモミ)」で終わってしまうという結果に終わった。標高2,750メートルという世界でも例のない高地での稲作は、想像以上に困難な挑戦であった。


5.2.2 「しいな」になってしまう問題

そんな時、故郷の農業試験場の専門家から重要なアドバイスを得た。稲はどんなに立派な穂ができても、出穂期に15度以下に気温が下がると「しいな」になってしまうというのである。これを受けて近藤氏は、7月の初めから田んぼの上全面にビニールシートを懸けて保温することを思い付いた。

栽培上の課題

対策

毎日吹く風速10~20mの強風

水田の中に大量の竹を高さ1mほどに立て、縦・横・×字に竹を指し渡してビニールシートを固定

低温による「しいな」の発生

ビニールシートによる保温で朝でも水温20度を維持

3,000m近い高地だが日差しは強く、ビニールシートの下は朝でも水温20度とむっとする温度を保った。近藤氏は毎日、祈る思いで水田を見守り続けた。


6. 日本の伝統技術を応用した独自の栽培方法


近藤亨氏がムスタンのテニ村(標高2,750メートル)で試みた水稲栽培は、最先端のバイオテクノロジーではなく、日本の伝統的農業技術の組み合わせから生まれた画期的な方法でした。世界でも中国雲南省の標高2,450メートルが稲作の極限とされていた中、それをさらに300メートルも上回る高地での挑戦でした。


6.1 深水栽培と石垣いちごの技術の組み合わせ

近藤氏が採用した技術は、東北の冷害地帯で行われてきた「深水栽培」と、静岡の「石垣いちご」の技術を応用したものでした。具体的には、地面にビニールを敷いた上で、水田の周囲を石垣で囲むという独創的な方法です。

この石垣の役割は単なる囲いではありませんでした。石の一つ一つに太陽熱を蓄えて田んぼの温度をできるだけ保ち、強風や冷気から稲を守るという重要な機能を果たしました。日中の強烈な太陽光による熱を石が吸収し、夜間にその熱を放出することで、水田の温度低下を防ぐ仕組みです。

技術要素

由来

効果

深水栽培

東北の冷害地帯

水温の保持、冷害防止

石垣技術

静岡の石垣いちご

蓄熱効果、防風効果


6.2 ビニールシートによる保温対策

最初の3年間の失敗を経て、近藤氏は故郷の農業試験場の専門家から重要なアドバイスを得ました。稲はどんなに立派な穂ができても、出穂期に15度以下に気温が下がると「しいな」になってしまうという知見でした。

この問題を解決するため、7月の初めから田んぼの上全面にビニールシートを懸けて保温するという方法を考案しました。標高3,000メートル近い高地でも日差しは強く、ビニールシートの下は朝でも水温20度を保つことができました。


6.2.1 強風対策としての竹を使った固定方法

ムスタンでは毎日吹く風速10~20メートルの強風が最大の課題でした。ビニールシートが吹き飛ばされないよう、近藤氏は独自の固定方法を開発しました。

具体的には、水田の中に大量の竹を高さ1メートルほどに立て、その上に縦、横、×字に竹を指し渡して、ビニールシートをしっかりと固定しました。この竹を使った格子状の構造により、強風に耐えられる頑丈な保温システムが完成したのです。


7. 石垣ポリハウスによる画期的な成功


7.1 ポリエステルパネルと石垣の組み合わせ

3年間の試行錯誤の末、近藤亨氏は新たな突破口を見出しました。ポリエステル波板パネルを使用することで、ビニールシートより高価ではあるものの、耐用年数を15年から20年に延ばせることが判明したのです。

幸運にも、カトマンズで前年からポリエステル生産工場が操業を開始していました。近藤氏は直ちに透明パネル200枚を発注し、車で運べる地点まで運搬した後、1人10枚ずつ背負って人力でガミ農場まで運び込みました。

パネルの高価格を考慮し、側面を石垣で囲い、屋根部分のみポリエステルパネルで覆う構造を採用しました。石垣は厚さ60センチ、屋根側の高さ2メートル、裾側1.5メートルとして傾斜をつけ、石と石の隙間は泥で密閉しました。


7.1.1 現地の石垣作り技術の活用

石垣作りは家造りに使われる伝統技術で、現地の人々にとっては慣れ親しんだ作業でした。大小の岩を鉄のハンマーで打ち砕き、小さい金槌で適切な大きさに形作り、直線に張った縄に沿って垂直に積み上げていきました。


7.1.2 ハウス内の温度管理の成功

この石垣とポリエステルパネルの組み合わせは驚異的な効果を発揮しました。日中の強烈な太陽光線による輻射熱がハウス内に蓄積され、春から晩秋まで最低でも20度以上、最高は35度の温度を維持できたのです。深夜・早朝の外気温が10度前後まで下がっても、ハウス内は常夏の熱帯から亜熱帯の気候を保ちました。


7.2 コシヒカリ栽培での収量記録達成

石垣ポリハウスの高い保温力に確信を得た近藤氏は、従来の耐寒冷用水稲品種ではなく、人気の高いコシヒカリの栽培に挑戦しました。その結果、ビニールシート使用時よりも稲の草丈が優れ、豊かな実をつけることに成功しました。


7.2.1 10アール当たり600キログラムの収穫

正式な収量測定のため、国立作物試験場のシレスター博士がカトマンズからヘリコプターで現地入りしました。石垣ポリハウスを視察した博士は「ミスター近藤。こんな高地でよくも素晴らしい稲を実らせたものだ」と驚嘆の声をあげました。

項目

数値

比較

標高

3,600メートル

富士山頂に近い高さ

収穫量

10アール当たり600キログラム

ネパール平野部より約50%増

ハウス内温度

最低20度以上、最高35度

外気温10度でも熱帯気候を維持


7.2.2 ネパール平野部を50%上回る成果

正式な収量調査の結果に、シレスター博士は仰天しました。「10アール当たり600キログラム弱、これはネパール平野部の水田地帯に比べて、50パーセント近く多い収量」という驚異的な成果が確認されたのです。標高3,600メートルという世界でも類を見ない高地での稲作成功は、まさに農業技術の常識を覆す偉業となりました。


8. まとめ


近藤亨氏は70歳で私財を投げ打ち、標高2750メートルのネパール・ムスタンで世界最高地での稲作に成功しました。70歳で不可能に挑戦する姿勢は我々も見習うべきと思います。

さらに、戦場でなくなった友人への償いが動機であることに感嘆の気持ちがわきます。善行もかくあるべしと思うのは私だけでしょうか。私も、70歳から新しい活躍をしたいと思っています。人々が喜び、社会に貢献できれば何でもかまわない、その人ができることを謙虚に果たしていければと思う今日この頃です。

戦争は人々の心にまだ残っていると実感した次第です。

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